再度山大龍寺

再度山大龍寺

神護景雲二年に称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公が、摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて再度山の山中まで来られたときのこと、公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客が、忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまいました。

危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわしてみると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられたのです。

霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を「大龍寺」と名付けました。 観音様が出現した場所は「蛇ケ谷」と称し「龍ケ滝」と共に霊蹟として現存しています。山号はこの時点では摩尼山と号していました。

延歴ニ十三年には、遣唐使として入唐する弘法大師が旅の所願成就を御本尊に祈願されました。唐の恵果和尚より秘密の大法を授けられた弘法大師は、ふたたび当山に参籠され本尊に報恩謝徳のため七日間秘法を勤修されました。

弘法大師が再び登山されたというので「再度山」と呼ばれるようになり、修法された場所を「修法ケ原行場」と呼ぶようになりました。再度山公園には「修法ケ原」の地名が残っています。また大師が登山した道は大師道と呼ばれ、大龍寺の参詣道として栄えました。

鎌倉時代には度重なる戦火によって伽藍を失ないましたが、観応ニ年、摂津国司赤松円心は善妙上人を山主として中興し旧観をとりもどしました。

その後、戦乱の世が続いたため再び荒廃した大龍寺を、実祐上人が尼崎城主光録居士の協力を得て再興に努力され、上人没後も資賢上人が遺志を継いで現在の規模のものを復興されました。

明治になると、廃仏棄釈によって、廃寺となる運命にあった当寺を、時の住職井上徳順和尚が地元の人とともに、法燈維持のために尽し、東寺真言宗所轄の寺院として今日まで存置されることになりました。

出典元:再度山大龍寺縁起


東泉寺と湯泉地温泉

東泉寺古図写し

湯泉地の旧状を描いたこの古図は、東泉寺(本尊薬師如来、祐光山と号する)の湯を修復した時の見取り図と修復費を示しており、この費用は三村区の6大字によって為された。

各棟の名所から見ると、一般に開放されていたのは「入込之湯屋」だけだったように思われる。

これらの建物はすべて今よりはずっと下にあったことは云うまでもないが、明治の水害によって押し流されたりして潰滅、その後も国道建設などによってこのあたりは随分と削られ、今はすっかり地形が変わってしまっている。

図に記された武蔵への道は今もあるが、現在の湯の里の前の急な石段はその後のものである。(林宏 十津川郷探訪録 民俗3)


湯泉地温泉年表

宝徳2年(1450)
東泉寺境内に温泉湧出。(東泉寺縁起)

天文22年(1553)
本願寺僧が吉野郡の下市御坊(願行寺)から十津川に湯治で訪れる(私心記)

天正9年(1581)
高野山に追放された佐久間信盛が十津川温泉で横死(多聞院日記)

天正14年(1586)
本願寺の顕如上人が入湯(宇野主水記)

文禄4年(1595)
郡山城主豊臣秀保が十津川温泉で遭難(東西歴覧記)

寛政3年(1791)
温泉の湧出地について、湯原温泉は湯ノ原村と武蔵村の東泉寺温泉にあり(大和名所図会)

後に湯ノ原の温泉は大水害で枯渇。


湯泉地温泉写し

湯泉地温泉

昔は「東泉寺」と書いた、東泉寺は温泉の守り佛の薬師如来を本尊として建てられた寺である。東泉寺縁起によると、この温泉は「役の行者」の加持祈願によって湧出したことになっている。昔ここを訪れた著名人は佐久間信盛(1581)本願寺門跡顕如上人(1586)郡山城主豊臣秀保(1595)などがある。いずれも療養のためである。

泉質は「単純硫化水素泉」で、リウマチ、神経痛、婦人病、皮膚病などによく効く。(林宏 十津川郷探訪録 民俗3)


湯の神薬師

上略図に描かれた田本義光家の一寸下手から石段を登ってコンクリートの落石シードの上に出、そこから鋭角に左折すれば段々道を少し登ってその前に出る。山際の石積みの基壇上に新しい祠が大川に面して建ち、その辺りだけやや太い杉の木が3本際立っている。

鎮座は昔からで、かつての東泉寺の後身らしく、20年毎に遷宮が行われ、3年前にも造宮した。湯泉地温泉の守護神である。

祭りは毎年正月8日、三村区6大字と役場、それにここから湯を引いている湯の里、十津川荘、武蔵、中村などの旅館や民宿が寄って餅撒きをし、持ち回りの宿でご馳走をする。(林宏 十津川郷探訪録 民俗3)


廃仏毀釈

明治元年(1868)神仏分離令

明治4年(1871)郷内51か寺(いずれも禅宗)仏祭を神葬祭に改める(十津川記事)

明治6年(1873)郷内すべての寺院を廃することが認められた(十津川記事)


刀田山鶴林寺聖霊院

刀田山鶴林寺聖霊院

刀田山鶴林寺

坂本村より六七丁西にあり。天臺宗(天台宗)也。
草創は人皇三十一代敏達帝十二年、聖徳太子十二歳の御時、佛法興流の地を天文博士に卜(占)せ給ふに、其考文に曰、播州鹿子ノ郡、山海の中間に廣大の平原あり。是、萬代不朽、佛法繁栄の地也といふ。

故に大和ノ國、磐餘雙槻宮より行啓有て、遂に用明帝十二年三月上旬、太子十六歳の御時、此地に精舎を建栄有んと、湊ノ川勝に命じて、三間四面の梵宮を営み給ひ、釈迦三尊、四天王の像、内陣の四柱には八大金剛童子の影を図し、四壁には三千の佛像を畫(画)く。

東の方に太子の御宮殿あり。内には四天王の像を図す。右の方の厨子には太子二歳、同十六歳、四十二歳、三影合体の尊像あり。即、太子の御頂の髪を植へさせ給ふ。故に、世に植髪の太子と称し奉る。

又、西の方、堂縁に三枚板といふあり。伽藍の造営溢満しぬれば禍来らん事を察し、此縁側には今におひて両尖の釘なし。是、故實也とぞ。太子の草創より今に至て凡千二百歳の星霜を経ぬれども、回録の災なし。

當山の四方には、四邑に四つの塚あり。是を天王塚と號す。東は野口、西は米田、南は池田、北は大野。舊號は日本四箇の道場四天王寺と伝事、當山の舊記に見えたり。

太子、十二歳より十六歳の御時迄、こゝに座す。此山外に鴨下上皇太神宮、岩清水八幡宮舊祠、今にあり。加茂祠は備後村也。八幡宮は今福村也。

「播州名所巡覧図絵」


鶴林寺と聖徳太子

 鶴林寺がいつ、どのようにしてつくられたかは、実はよく分からない部分が多い。手掛かりとなる古い瓦や礎石などは発見されておらず、播磨一円のこのことを書いた峰相記にも、なぜか記録がない。しかし、記録としては江戸時代のものといいわれる「鶴林寺縁起」に、つぎのような歴史がうかがえる。

 蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ「刀田山四天王聖霊院」と名付けられる。崇峻天皇2年(589年)、これが鶴林寺の始まりとされている。

 その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立した。

 そして、天永三(1112)年に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。太子堂はこの年の建立と伝えられている。太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったという。鶴林寺の宝物館には今も、雅楽に使う大きな太鼓の一部が展示されているが、当時は、太子の命日には雅楽が奏され、舞楽が演じられたという。

 ところが、信長、秀吉による宗教弾圧と続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺となった。

「鶴林寺縁起」


参考図書