處女墓

處女墓

住吉の西、御田村に有。此塚、三つあり。一つは生田川の東、味泥にあり。各々十四五丁を隔つ。塚の周囲、各々八十余歩也。東は西表とし、西は東表とし、中を南表とす。此故事は「万葉集」「大和物語」に載する所也。

「大和物語」略意

むかし、津の国あしやの里に住む女あり。これを恋ふ男二人あり。一人は菟原の小竹田男、今一人はいづみの国の茅渟の大夫となんいひける。

此男ども、年の頃、顔かたち、心ざままで同じやうなれば、女おもひわづらひけるに、女のおや、生田川のはたに幄をうちて、かの二人の男をよびていふやう、此川に浮て侍る水鳥をあやまたず射ぬらん方へ奉らんといふ。

男ども、いとよき事とて、これをゐるに、一人は頭の方を射つ。一人は尾の方を射る。

かくて、むすめ、何といふべくもあらずとて、「住わびぬ我身なげてん津の国の生田の川は名のみ成りけり」とよみて、此川へ身をなげぬ。二人の男もつづきて同じ所へ身をなげ果ておわんぬ。親いみじく悲しみて取り上げ、葬りぬ。

男のおやども、聞伝へ来り、此女が塚の傍に塚を作り埋むとき、津の国の男のおや云やう、同国をこそ同所に塚をせめ、
他の国の人はいかでか此所の土を犯すべきやと妨げけるに、和泉の親、やがていづみより船にて土をはこび、終に埋めける。
此塚に黄楊の小櫛をうめければ生つきけり。今の世までも土の色かはらで有けり伝伝。

○此三人の塚なれば、味泥をちぬ男、御田を菟原男、東明を處女の塚也といふ。

○或伝、いにしへは、此ほとりの地名をおとめといひて、古き名所也。
モトメと云は誤り也。東明はタウメにて、即ち、おとめの転語としるべし。「万葉」人丸の歌に

「玉もかるおとめを過ぎて夏草の野嶋がさきにいおりすわれば」

「万葉集」處女塚長歌ノ略

遠き代に かたりつがんと おとめ墓 中に造りおき おとこ塚 かなたこなたに 造りおける ゆへよし聞て しらぬとも 新喪のことも ねなきつるかも

同反歌二首

あしのやのうなひおとめがおきつきを ゆきゝにみれば ねのみしなかる つかのうへ 木の枝なびけりきくがごと ちぬ男にしよるべけらしも 

同芦屋處女墓を過る時の長歌略

いにしへの ますらおのこの 相きほひ つまどひしけん あしのやの うなひおとめの おきつきを 吾たちみれば ながき世の かたりにしつゝ 下略

同反歌

いにしへのさゝ田男のつまどひしうなひおとめのおきつきはこれ

此三つの墓の事、「五畿内志」には、三陵と題して、大馬鬣封也。此皆、上古の荒陵なるを、騒客文人、俚談を採りて、述懐の文藻をなせりといへり。

「播州名所巡覧図絵」


住吉神社

住吉神社

菟原郡

東は寺岡より、西は生田川、南は海中に限りありて、北は山中にあり。

「伊勢物語」

うばらあしやの里といへり。

菟原住吉ノ祠

住吉村にあり。野寄、岡本、田中、片町、住吉、横家、魚崎、西青木、共にこれを祭る。

呼て山路の荘といふ。

祭神四座、天照太神、八幡宮、神功皇后、住吉:摂社・春日・諏訪

住吉、表筒男、中筒男、底筒男の三神は、神功皇后、三韓を伐せ給ふ時の軍に従ひし御神にして、御凱陣の時、皇后に誨へて、荒魂を長門ノ国山田に祭らしめて、明年、豊浦ノ宮に移し給へり。

それより海辺二十二社を勧請し給ふ、其のひとつ也。又、大阪の南に祭りしは和魂なりとぞ。

○境内に、知時石、大海ノ神祠、神宮寺ノ舊蹟、若宮八幡、御崎濱等の名あり。
○この村はづれより、麻耶山の道ありて、五十丁斗也。
○八幡○若林氏實無蜜柑○五毛天神等、焰魔堂(閻魔堂)までの間にあり。

「播州名所巡覧図絵」


「本住吉神社の由緒」

神功皇后が三韓遠征(新羅出兵)の帰途、難波に向かう神功皇后の船がぐるぐると廻り進まなくなった。

武庫の湊に引き返して占いをすると、天照大神を西宮の廣田神社、稚日女尊を生田神社に、事代主尊を長田神社、そして表筒男命、中筒男命、底筒男命の三神を大津淳中倉長峡に祀れば航海を守護するとのお告げがあったので、それぞれ神主を選んで祀らせた。

大津淳中倉長峡の地が莵原郡住吉であり、大阪の住吉大社には後にここから移されたものであるために、こちらを本住吉と呼ぶと伝えられています。


生田神社

生田社

生田社 後拾遺

「心をば生田の森にかくれども恋しきにこそ死ぬべかりけれ」

                           よみ人しらず

挿絵に書かれた和歌は、後拾遺和歌集に収められたもので、生田の生を「行く」と「生く」に掛けた恋歌です。

「心は行きたい、生きたいと願っているのだけれども、その恋しさのあまり恋死にしてしまいそうです」と歌われています。


「生田ノ神社」

生田宮村にあり。式内の大社也。近隣二十四ヶ村、これを祭る。
七月三十日、八月二十日。生田ノ森 社地をいへり。ともに名所也。

祭神、雅日女ノ尊。

摂社 住吉、八幡、諏訪、日吉。
末社 天照太神、稲荷、和哥宮、雷大臣、蛭子、辨才天。

裔神八前みな域外にあり。一の宮は北野村にあり。二宮は生田村、三宮は神戸村(現:神戸市中央区三宮町)、四宮は花熊村、五宮は平野村、七宮は兵庫北濱町、六宮、八宮は坂本村(現:神戸市中央区楠町)にあり。

いにしへは、活田川の上にありて、生田長狭国と稱し、海上五十狭茅を祭らしめし所也。よって今も、村長海上氏とありて装束し、神幸を供奉す。むかしは、神輿を和田の岬へ守奉りしといへり。

「播州名所巡覧図絵」


「神戸の由来」

神戸の地名のルーツは、平城天皇の大同元年(806)、朝廷より「生田神社」に封戸として44戸が与えられたことに始まります。 神に仕えて奉仕する人々の家(戸)、すなわち神の戸「かんべ」が「こうべ」の由来となりました。


「生田川伝説」
生田川

益荒丁子(益荒男)等 妻を互にあらそひ 生田川にて水鳥を射る

「摂津名所図会」

また、生田川には生田川伝説と呼ばれる話が伝わっています。

芦屋が大阪湾の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていた頃の話で、一人の美しい娘が二人の若者の熱心な求婚に思い煩い、生田川に身を投げようとする物語です。

詳しい内容は、下記リンクより、「兵庫県立歴史博物館」のサイトに集録されている「ひょうご伝説紀行」処女塚を御覧ください。

ひょうご歴史ステーション