舞子濱

舞子の濱

たるみの西はづれより山田村迄の間、東西十五六丁、南北五六丁の松林なり。此地、古歌なければ、必ず名所といふには非ず。されども名高き事、天下に聞こへたり。

是正に、砂色、松の翠色、物に異なるが故也。砂は雪より白く、数千株の松に高低なく、梢を等ふして丈に不過。枝幹屈曲、をのづから見所ありて、葉の色殊に深くして鴨の毛のごとし。

いかさま高砂、尾上、住のへといへども、ここに一変して、ひとり松林の賞すべき者也。

これは、文化元年に発行された江戸時代の旅行ガイドブック「播州名所巡覧図絵」に紹介された「舞子濱」の一文です。

この紹介文を見ると、東西1.5~6km、南北5~600m程度に及ぶ舞子浜の松林の様子が偲ばれ、その見事さは「相生の松」で知られる、高砂や住吉の松に勝るとも劣らぬとあります。

又、砂浜の街道沿いに目をやると、多くの旅人と共に駕籠屋や飛脚が行き交う中、籠を背負いカンジキを使って松葉を集める人や、肩に担いだ柴を運ぶ人の姿が描かれています。

舞子濱

「舞子濱」

或伝前に淡治山(淡路島)
横たわり後に小山
つづき其間に慇然
と志かり淡路南方
の風山まに吹こし
て木ずへの空を吹き
後の山の峯を吹き
こし程よく生育
の理を得たる事
       もや

源ノ貞世 道ゆきぶり
明石の浦ハ殊に志ら濱(白浜)
の色もけちめ見え

たるここちして、雪を志きたる
やうなるうへに緑の松の
としわかくて
濱風に
なびき
なれたる枝に
手向草打
志げりつつ
むらむら
なみたてり

一方、挿絵の文章を見ると、淡路島から吹く南風が松の程よい生育に適している事、又、源ノ貞世(みなもとのさだよ)が明石の浦を通った際に、この辺りから紀伊半島の白浜の景色が見える事、雪を敷いたようい真っ白な砂浜に、青々とした若松が風になびく様子等が書かれています。

舞子の濱

舞子の濱
より
淡路島を
望む

浜辺の茶屋には、遠眼鏡で淡路島を眺めている旅人や多くの女性客の姿があり、お店の人々がお食事やらお弁当やらを、お客に手渡している姿が描かれています。又、砂浜では、景色を眺めながら煙管を吸っている旅人の横で、坊主がなにやら紙に筆を走らせている姿や、明石海峡を行き交う帆掛け舟の様子が描かれています。

須磨一の谷

此谷、長さ四丁餘、横二十間、谷口より波打際まで六十四間餘。二の谷に至るの間、二丁四十間餘をへだてて、礆砠の地なり。是、古戦場にして名高く、人よく知る所なり。

今から凡そ二百年前の江戸時代後期、庶民の間で旅行ブームが起こりました。これは、文化元年に発行された江戸時代の旅行ガイドブック「播州名所巡覧図絵」に紹介された一文です。

一の谷

挿絵の左上に書かれているのは芭蕉の句で、「ほととぎす消行かたや嶋一つ」と書かれています。

一の谷

旅人が往来する海岸沿いの松林の中には茶屋があり、旅人が笠を脱ぎ床几に腰掛けて休んでいる姿が描かれています。

一の谷

又、松林に囲まれた街道筋の左側にはお客を乗せた駕籠屋が描かれており、この辺りの街道は旅人で賑わっていたことがわかります。

こちらは須磨の浦と題された挿絵です。街道沿いには「たるミ」「塩や」「一の谷」と書かれており、山中に目をやると「鉢ふせ」「あつもり」「鉄かい峯」「すま寺」「ひよどりこえ」「月見松」等と書かれています。

海上に目をやると、挿絵中央から左側に漁師が刺し網漁をしている様子が描かれており、海岸からは沖に向かって出発する帆掛船が描かれていることがわかります。

「和州吉野郡十津川郷細見全図」

慶長・正保・元禄・天保の4度、江戸幕府の命で国ごとの絵図が作成されました。このうち天保国絵図は、天保6年(1835)にその作成が命じられ、 同9年(1838年)に完成しました。この絵図はそれと同時期の天保6年11月に完成した十津川郷の絵図になります。

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十津川村

天保六乙羊霜月中三(1835年11月)

部分拡大絵図1
十津川村

大峰山脈の金峰山から上野地までの部分の拡大絵図です。

金峰山とは、大峰山脈の吉野山から山上ヶ岳までを示す総称で金峯山とも記し、吉野と熊野を結ぶ大峰奥駈道の吉野側の入り口にあたります。 吉野山にある金峯山寺は、金峰山修験本宗の本山で、本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝えられています。

一方、十津川(熊野川)に目をやると、天川村の天ノ川を源流とする十津川には4つの橋が描かれ、 上野地と谷瀬を結ぶ部分には、この頃から既に橋が架かっていたことがわかります。

現在では、日本最長の生活用吊り橋として有名な谷瀬の吊り橋ですが、 吊り橋が完成する以前は川を渡るたびに谷を下り、丸木橋を渡って対岸の斜面を這い上がらなければならなかったそうで、 洪水のたびに流される丸木橋のあまりの不便さに、教員の初任給が7,800円の時代、地元の住民が1軒当たり20~30万円を出し合い、村の協力を得て建設した 現在の谷瀬の吊り橋が完成したのは、昭和29年(1954年)のことになります。

部分拡大絵図2

十津川村

上野地から山崎までの部分の拡大絵図です。

絵図の中央には風屋と書かれた地名があります。現在は滝川との合流地点の手前に風屋ダムが建設されており、 風屋から小原峰の麓の尾合戸滝あたりまでの水量が制限され、この当時の絵図と比べると、極端に川幅が狭くなっていることがわかります。

部分拡大絵図3

十津川村

山崎から折立までの部分の拡大絵図です。

湯ノ原と武蔵の地名の横に、温泉アリと書かれているのがわかります。このあたりは現在の湯泉地温泉で、今も24時間毎日源泉掛け流しのお湯がポンプで汲み上げられています。また、湯ノ原の横には、ユノモト(湯ノ元)の表記もみられ、その隣には「舟ワタシ」の文字がみられます。

かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があり、それが何時しか湯泉地と呼ばれるようになったそうです。

いつもお世話になっている十津川荘さんは、湯ノ原から十津川村役場のある小原へと続く十津川沿いの、湯泉地温泉の元湯の近くにあります。

部分拡大絵図4

十津川村

折立から七色までの部分の拡大絵図です。

この地図の中央に書かれた、山手から垣内(カイト)あたりが、現在の十津川温泉のある地域です。 猿飼地区の東側には吉野の金峯山寺と熊野本宮大社を結ぶ大峰奥駈道が朱色の線で引かれ、玉置神社の鳥居と共に玉置山が描かれています。

また、絵図上に書かれた地名の、谷垣内から七色方面へ向かう途中の峠には「天空の郷」と呼ばれる果無集落があり、 世界遺産に登録された高野山と熊野本宮大社を結ぶ小辺路沿いにある小さな集落として、今も観光客の人気を集めています。

最後に、この「和州吉野郡十津川郷細見全図」を見ると、凡そ180年前の絵図でありながら、今も当時そのままの地名が使われており、 十津川沿いを走る奈良交通の「日本一の走行距離を誇る路線バス」八木新宮特急バスに揺られると、この絵図に書かれた懐かしい名前が バス停ごとにアナウンスされています。