名所図会とは?
名所図絵は江戸時代に流行した観光ガイドブックです。播州名所巡覧図絵に紹介された、兵庫県加古川市にある刀田山鶴林寺のご紹介です。
刀田山鶴林寺
坂本村より六七丁西にあり。天臺宗(天台宗)也。
草創は人皇三十一代敏達帝十二年、聖徳太子十二歳の御時、佛法興流の地を天文博士に卜(占)せ給ふに、其考文に曰、播州鹿子ノ郡、山海の中間に廣大の平原あり。是、萬代不朽、佛法繁栄の地也といふ。
故に大和ノ國、磐餘雙槻宮より行啓有て、遂に用明帝十二年三月上旬、太子十六歳の御時、此地に精舎を建栄有んと、湊ノ川勝に命じて、三間四面の梵宮を営み給ひ、釈迦三尊、四天王の像、内陣の四柱には八大金剛童子の影を図し、四壁には三千の佛像を畫(画)く。
東の方に太子の御宮殿あり。内には四天王の像を図す。右の方の厨子には太子二歳、同十六歳、四十二歳、三影合体の尊像あり。即、太子の御頂の髪を植へさせ給ふ。故に、世に植髪の太子と称し奉る。
又、西の方、堂縁に三枚板といふあり。伽藍の造営溢満しぬれば禍来らん事を察し、此縁側には今におひて両尖の釘なし。是、故實也とぞ。太子の草創より今に至て凡千二百歳の星霜を経ぬれども、回録の災なし。
當山の四方には、四邑に四つの塚あり。是を天王塚と號す。東は野口、西は米田、南は池田、北は大野。舊號は日本四箇の道場四天王寺と伝事、當山の舊記に見えたり。
太子、十二歳より十六歳の御時迄、こゝに座す。此山外に鴨下上皇太神宮、岩清水八幡宮舊祠、今にあり。加茂祠は備後村也。八幡宮は今福村也。
「播州名所巡覧図絵」
鶴林寺と聖徳太子
鶴林寺がいつ、どのようにしてつくられたかは、実はよく分からない部分が多い。手掛かりとなる古い瓦や礎石などは発見されておらず、播磨一円のこのことを書いた峰相記にも、なぜか記録がない。しかし、記録としては江戸時代のものといいわれる「鶴林寺縁起」に、つぎのような歴史がうかがえる。
蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ「刀田山四天王聖霊院」と名付けられる。崇峻天皇2年(589年)、これが鶴林寺の始まりとされている。
その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立した。
そして、天永三(1112)年に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。太子堂はこの年の建立と伝えられている。太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったという。鶴林寺の宝物館には今も、雅楽に使う大きな太鼓の一部が展示されているが、当時は、太子の命日には雅楽が奏され、舞楽が演じられたという。
ところが、信長、秀吉による宗教弾圧と続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺となった。
鶴林寺縁起
引用元:鶴林寺の歴史
鶴林寺の思い出
加古川育ちの僕にとっての「鶴林寺の思い出」は、毎年1月に行われる修正会(しゅしょうえ)鬼追い式の後、本堂からまかれるお餅を拾いにいったことです。
その他に覚えていることといえば植木市。なぜか子供のころから盆栽や水墨画が好きで、母親から植木市があると聞くと、中学生の僕は学校が休みの日に植木をみるのが楽しみで、鶴林寺に遊びに行きました。植木は高くて買えなかったので、安い水墨画を買って帰った記憶があります。
僕の実家は鶴林寺の檀家で、子どものころ和尚さんに三重塔の内部を見せてもらったことがあります。塔の一階は土間だったと思いますが、礎石の上に心柱が置かれ、三重塔全体が心柱で貫かれていたのを覚えています。
心柱は他の骨組みとつながっていないため、当時幼稚園か小学校の低学年だった子供の力でも簡単に揺らすことができました。三重塔は、この構造によって建物の揺れと心柱の揺れが打ち消しあい、地震から塔を守る役割をしています。
三重塔とインドのストゥーパー
塔の原形はインドのストゥーパー(卒塔婆)といわれ、もともとは仏舎利を祀るためのものです。
サンスクリット語のストゥーパーは中国語で卒塔婆。塔婆や塔はストゥーパーの省略した呼び方で、法隆寺の五重塔の心柱の下にある礎石の上部には「釈迦の遺骨」が納められています。
サンスクリット語のストゥーパーは「高く顕れる」という意味ですので、五重塔は「ここに釈迦の遺骨が納められていますよ!」ということを世間に知らしめるためのものと考えられます。
引用元:万葉やまと路日和