高御位山

高御位

志方、福井の二郷に跨る山上に神祠有。是、石宝殿に祭る所の、一座、高座明神の坐山也。例祭、九月十九日。神與一基、山上より守り奉れば、同じく生石子より是を麓に迎え、高座山と宝殿との間、神幸の舘舎に生石子の神與と共に並べ、鎮め奉る事、一夜也。

さて山を高御座と號るは、神座の儀也。里俗の傳に、山上に石屑多きは、宝殿制作の時、ここに送り来りしもの也とはいへども、石屑、いかなる重宝にか有らん。今は捨所さへまどひぬ。其上、昔は生石子の山下、波涛の渚也しものを、誠に神慮はかるべからず。

これは、文化元年に発行された江戸時代の旅行ガイドブック「播州名所巡覧図絵」に紹介された「高御位山」の一文です。

石宝殿の真北にあたる高御位山には、高位明神が祭られる高位神社があります。高御位神宮の由来によると、人類が地球に誕生したとされる今からおおよそ650万年前、金星から飛来した隕石が空中で3つに分かれ 紀州の熊野、京都の鞍馬、そして播州の高御位に落ちたといわれており、その隕石が金星から飛来したので金神として祀ったといわれています。


石宝殿

「石宝殿」

静巌室と稱(称)す。生石子村、中山腰にあり。石殿を以って神體(神体)とす。大さ二丈三尺四方、高さ二丈六尺、すべて社檀の形に作りたるを、横に倒したる也。故に、屋根は土台とも横に見へて、拜する人は宝殿の底に面す。

一石を以て作りなしたるは、元より此地は近國の名物、龍山石を産ずる山にして、宝殿も一個五十余丈の石山の中を切り抜き、即ち、切り抜きたる所にて造り、其所に倒し捨たるさま也。土台と屋根との間は四方ともに切りかけて狭く、上に成りたる所には、自ら土留りて松を生ず。四周に水の溜まりたるは、是、掘て窪ければなり。

孝徳天皇白雉年中、千石千貫の社領を賜り、摂社、末社をも厳重たりしに、赤松別所等が動乱に頽廃(頽廃)して、今は生石明神、高位明神、二神を幣殿に鎮座するのみなり。神徳井に記原不思議、神人の縁起といへるものにゆづりて、爰(こゝ)に略す。

「播州名所巡覧図絵」

巨石の御神体として有名な石宝殿、この辺り一帯は竜山石(宝殿石)の産地としても知られており、古代より現在まで1700年もの間採石され続けている石材は、国内でも竜山石だけだそうです。


「日本三奇石乃宝殿 鎮の石室(いわや)とは」

神代の昔、大穴牟遅命(おおあなむち)と少毘古那命(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け、国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、二神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宝殿を造営せんとして一夜のうちに工事を進めらるるも、工事半ばなる時、阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り神々を集め、(当時の神詰現在の高砂市神爪)
この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こす事ができなかったのである。

時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである。

以来此の宮殿を石乃宝殿、鎮の石室と称して居る所以である。

「生石神社略記」




入鹿の荘

紀伊国名所図会は、江戸時代後期に和歌山城下の書肆(書店)・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌で、 紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載されています。初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)、三編(加納諸平編)は天保9年(1838)、 後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)に、それぞれ刊行されています。 昭和12年(1941)高市志友の子孫志直が未定稿を校訂加筆して熊野編が完成されました。 単に名所だけでなく、広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられます。

入鹿の荘

東北は西山郷に接し、西北は大和十津川に接し、南は花井、尾呂志、大野の三荘に境す、広袤(こうぼう)東西三里ばかり、南北二里余り、 北山川東より来り西に向かって流る、湯口、島津、木津呂、玉置口の四村その両岸に在り、荘中の高峰を入鹿一族山といふ、 また荘中に二ツの小川あり、一は此の山の西南より出で、大河内村を経て花井荘楊枝村に至りて熊野川に入り、一は丸山村の北東半里ばかりに出で、 小栗須、大栗須両村の間を流れて矢ノ川に落合ひ、板屋村を経て北山川に入る、此れを入鹿川といふ、 全荘すべて山澗(山谷)の間に点在すれど、板屋、小栗須、大栗須の邊は土地稍(やや)開けて田園多し。

紀伊国名所図会 (熊野篇)


和州吉野郡十津川郷細見全図 部分拡大絵図

入鹿の荘

以前ご紹介した和州吉野郡十津川郷細見全図の、玉井口から入鹿までの拡大絵図です。

絵図の中央を流れる川は北山川で、県道765沿いを流れる入鹿川を東に向かうと現在は「紀和町小栗須」「紀和町大栗須」 と呼ばれ、熊野市役所紀和庁舎、入鹿八幡宮、入鹿小学校等が点在する入鹿の荘に出ます。

また、入鹿の荘の南側には入鹿荘九ヶ村の持合だった山があり、入鹿頼兼の一族に因んで一族山(大峰山)と呼ばれています。


北山川 奥瀞の急湍

木津呂の集落から少し北山川を遡ると十津川村の景勝地として有名な「瀞八丁」があります。

瀞八丁

瀞八丁

北山川の上流、紀伊、大和、伊勢三国の境を為すところにあり一に玉井峡とも云ふ。瀞の字はキヨシと訓み古くは淨に通ず、国訓これをトロと云ひ、河水の靜かにたまりたる義に用ひらる。 昔は此所を八丁泥など稱へて(讃えて)泥の字を用ひしはただ発音上濁音として 假用(かよう)せしに因るのみなれば、切離し呼ぶ時は清みて「トロ」と稱ふべきなるに、我地方往々ドロと訛稱するの非なること元より論を俟たず。


奥瀞

更に川を泝りて小松より小森に至るもの之を奥瀞と為す、小松村は小森の西三十数丁にありて 村居は北山川屈曲の中にあり、襲越の瀧、上の瀧、下の瀧、神護の瀧、一の瀧、音法の瀧など 河中随所にありて、是より上流は石灘または飛泉の為船を上すを得ず、然れとも峽谷はさながら 武陵の桃源に似ていけどもいけども盡きる(尽きる)を知らず、人跡まれなる熊野の奥此の 絶勝この奇境、奥瀞の神秘を尋ねてころ茲に始めて瀞峡の全貌と其の眞價を知り得べきなり。

紀伊国名所図会 (熊野篇)


舞子濱

舞子の濱

たるみの西はづれより山田村迄の間、東西十五六丁、南北五六丁の松林なり。此地、古歌なければ、必ず名所といふには非ず。されども名高き事、天下に聞こへたり。

是正に、砂色、松の翠色、物に異なるが故也。砂は雪より白く、数千株の松に高低なく、梢を等ふして丈に不過。枝幹屈曲、をのづから見所ありて、葉の色殊に深くして鴨の毛のごとし。

いかさま高砂、尾上、住のへといへども、ここに一変して、ひとり松林の賞すべき者也。

これは、文化元年に発行された江戸時代の旅行ガイドブック「播州名所巡覧図絵」に紹介された「舞子濱」の一文です。

この紹介文を見ると、東西1.5~6km、南北5~600m程度に及ぶ舞子浜の松林の様子が偲ばれ、その見事さは「相生の松」で知られる、高砂や住吉の松に勝るとも劣らぬとあります。

又、砂浜の街道沿いに目をやると、多くの旅人と共に駕籠屋や飛脚が行き交う中、籠を背負いカンジキを使って松葉を集める人や、肩に担いだ柴を運ぶ人の姿が描かれています。

舞子濱

「舞子濱」

或伝前に淡治山(淡路島)
横たわり後に小山
つづき其間に慇然
と志かり淡路南方
の風山まに吹こし
て木ずへの空を吹き
後の山の峯を吹き
こし程よく生育
の理を得たる事
       もや

源ノ貞世 道ゆきぶり
明石の浦ハ殊に志ら濱(白浜)
の色もけちめ見え

たるここちして、雪を志きたる
やうなるうへに緑の松の
としわかくて
濱風に
なびき
なれたる枝に
手向草打
志げりつつ
むらむら
なみたてり

一方、挿絵の文章を見ると、淡路島から吹く南風が松の程よい生育に適している事、又、源ノ貞世(みなもとのさだよ)が明石の浦を通った際に、この辺りから紀伊半島の白浜の景色が見える事、雪を敷いたようい真っ白な砂浜に、青々とした若松が風になびく様子等が書かれています。

舞子の濱

舞子の濱
より
淡路島を
望む

浜辺の茶屋には、遠眼鏡で淡路島を眺めている旅人や多くの女性客の姿があり、お店の人々がお食事やらお弁当やらを、お客に手渡している姿が描かれています。又、砂浜では、景色を眺めながら煙管を吸っている旅人の横で、坊主がなにやら紙に筆を走らせている姿や、明石海峡を行き交う帆掛け舟の様子が描かれています。