生田神社

生田社

生田社 後拾遺

「心をば生田の森にかくれども恋しきにこそ死ぬべかりけれ」

                           よみ人しらず

挿絵に書かれた和歌は、後拾遺和歌集に収められたもので、生田の生を「行く」と「生く」に掛けた恋歌です。

「心は行きたい、生きたいと願っているのだけれども、その恋しさのあまり恋死にしてしまいそうです」と歌われています。


「生田ノ神社」

生田宮村にあり。式内の大社也。近隣二十四ヶ村、これを祭る。
七月三十日、八月二十日。生田ノ森 社地をいへり。ともに名所也。

祭神、雅日女ノ尊。

摂社 住吉、八幡、諏訪、日吉。
末社 天照太神、稲荷、和哥宮、雷大臣、蛭子、辨才天。

裔神八前みな域外にあり。一の宮は北野村にあり。二宮は生田村、三宮は神戸村(現:神戸市中央区三宮町)、四宮は花熊村、五宮は平野村、七宮は兵庫北濱町、六宮、八宮は坂本村(現:神戸市中央区楠町)にあり。

いにしへは、活田川の上にありて、生田長狭国と稱し、海上五十狭茅を祭らしめし所也。よって今も、村長海上氏とありて装束し、神幸を供奉す。むかしは、神輿を和田の岬へ守奉りしといへり。

「播州名所巡覧図絵」


「神戸の由来」

神戸の地名のルーツは、平城天皇の大同元年(806)、朝廷より「生田神社」に封戸として44戸が与えられたことに始まります。 神に仕えて奉仕する人々の家(戸)、すなわち神の戸「かんべ」が「こうべ」の由来となりました。


「生田川伝説」
生田川

益荒丁子(益荒男)等 妻を互にあらそひ 生田川にて水鳥を射る

「摂津名所図会」

また、生田川には生田川伝説と呼ばれる話が伝わっています。

芦屋が大阪湾の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていた頃の話で、一人の美しい娘が二人の若者の熱心な求婚に思い煩い、生田川に身を投げようとする物語です。

詳しい内容は、下記リンクより、「兵庫県立歴史博物館」のサイトに集録されている「ひょうご伝説紀行」処女塚を御覧ください。

ひょうご歴史ステーション


再度山大龍寺

再度山大龍寺

神護景雲二年に称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公が、摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて再度山の山中まで来られたときのこと、公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客が、忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまいました。

危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわしてみると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられたのです。

霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を「大龍寺」と名付けました。 観音様が出現した場所は「蛇ケ谷」と称し「龍ケ滝」と共に霊蹟として現存しています。山号はこの時点では摩尼山と号していました。

延歴ニ十三年には、遣唐使として入唐する弘法大師が旅の所願成就を御本尊に祈願されました。唐の恵果和尚より秘密の大法を授けられた弘法大師は、ふたたび当山に参籠され本尊に報恩謝徳のため七日間秘法を勤修されました。

弘法大師が再び登山されたというので「再度山」と呼ばれるようになり、修法された場所を「修法ケ原行場」と呼ぶようになりました。再度山公園には「修法ケ原」の地名が残っています。また大師が登山した道は大師道と呼ばれ、大龍寺の参詣道として栄えました。

鎌倉時代には度重なる戦火によって伽藍を失ないましたが、観応ニ年、摂津国司赤松円心は善妙上人を山主として中興し旧観をとりもどしました。

その後、戦乱の世が続いたため再び荒廃した大龍寺を、実祐上人が尼崎城主光録居士の協力を得て再興に努力され、上人没後も資賢上人が遺志を継いで現在の規模のものを復興されました。

明治になると、廃仏棄釈によって、廃寺となる運命にあった当寺を、時の住職井上徳順和尚が地元の人とともに、法燈維持のために尽し、東寺真言宗所轄の寺院として今日まで存置されることになりました。

出典元:再度山大龍寺縁起


刀田山鶴林寺聖霊院

刀田山鶴林寺聖霊院

刀田山鶴林寺

坂本村より六七丁西にあり。天臺宗(天台宗)也。
草創は人皇三十一代敏達帝十二年、聖徳太子十二歳の御時、佛法興流の地を天文博士に卜(占)せ給ふに、其考文に曰、播州鹿子ノ郡、山海の中間に廣大の平原あり。是、萬代不朽、佛法繁栄の地也といふ。

故に大和ノ國、磐餘雙槻宮より行啓有て、遂に用明帝十二年三月上旬、太子十六歳の御時、此地に精舎を建栄有んと、湊ノ川勝に命じて、三間四面の梵宮を営み給ひ、釈迦三尊、四天王の像、内陣の四柱には八大金剛童子の影を図し、四壁には三千の佛像を畫(画)く。

東の方に太子の御宮殿あり。内には四天王の像を図す。右の方の厨子には太子二歳、同十六歳、四十二歳、三影合体の尊像あり。即、太子の御頂の髪を植へさせ給ふ。故に、世に植髪の太子と称し奉る。

又、西の方、堂縁に三枚板といふあり。伽藍の造営溢満しぬれば禍来らん事を察し、此縁側には今におひて両尖の釘なし。是、故實也とぞ。太子の草創より今に至て凡千二百歳の星霜を経ぬれども、回録の災なし。

當山の四方には、四邑に四つの塚あり。是を天王塚と號す。東は野口、西は米田、南は池田、北は大野。舊號は日本四箇の道場四天王寺と伝事、當山の舊記に見えたり。

太子、十二歳より十六歳の御時迄、こゝに座す。此山外に鴨下上皇太神宮、岩清水八幡宮舊祠、今にあり。加茂祠は備後村也。八幡宮は今福村也。

「播州名所巡覧図絵」


鶴林寺と聖徳太子

 鶴林寺がいつ、どのようにしてつくられたかは、実はよく分からない部分が多い。手掛かりとなる古い瓦や礎石などは発見されておらず、播磨一円のこのことを書いた峰相記にも、なぜか記録がない。しかし、記録としては江戸時代のものといいわれる「鶴林寺縁起」に、つぎのような歴史がうかがえる。

 蘇我氏と物部氏の争いを避け、高麗出身の僧・恵便(えべん)は播磨の地に身を隠していた。聖徳太子はその恵便の教えを受けるためにわざわざ播磨を訪ね、後に3間4面の精舎を建立させ「刀田山四天王聖霊院」と名付けられる。崇峻天皇2年(589年)、これが鶴林寺の始まりとされている。

 その後、養老2年(718年)、武蔵の大目「身人部春則」が太子の遺徳を顕彰するため、七堂伽藍を建立した。

 そして、天永三(1112)年に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。太子堂はこの年の建立と伝えられている。太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったという。鶴林寺の宝物館には今も、雅楽に使う大きな太鼓の一部が展示されているが、当時は、太子の命日には雅楽が奏され、舞楽が演じられたという。

 ところが、信長、秀吉による宗教弾圧と続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減し、明治維新の排仏棄釈など、時代の荒波を潜り抜け、今日、宝生院、浄心院、真光院の3カ寺、15,000坪の鶴林寺となった。

「鶴林寺縁起」


参考図書